さまざまな恐怖を克服する方法

さまざまな恐怖を克服する方法

人は皆人生の中でなんらかの「恐怖」というものに直面するものです。それが大きなものであれば、私たちは気付くことができますが、小さな恐怖であれば、私たちが気付かずに見過ごしてしまうこともあります。

私たちにとって「恐怖」というものは何なのか、それがどのように私たちに作用してくるのかを理解することがとても大切であることを私は悟るようになりました。なぜならもし私たちが「恐怖」について理解しなければ、「恐怖」が私たちの本来の神様が創造された姿から離れさせてしまうからです。そうなると、私たちに与えられた人生の目的を果たすことができなくなってしまいます。

「恐怖」という感情は悪魔が私たちをみじめにして、私たちの人生を破壊するために用いるツールといえるでしょう。「恐怖」は私たちの考えとして始まり、その後私たちを支配する感情を形成します。「恐怖」の感情はときに強く激しい感情となって、私たちに愚かな行動をするように促したり、益となることを行うことを妨害しようと作用してきます。

これは悪魔が人々の人生を攻撃する共通の方法であり、神様の御心から人々を離れさせ、悪魔が人々の心を巧みに操るための手段とも言えるでしょう。

もっと単純に言えば、「恐怖」とは信仰の反意語です。神様は私たちが信仰によって歩んでほしいと願っておられるのですが、悪魔はそれを「恐怖」という感情をもって妨害しようとします。信仰の生を歩み、恐怖が私たちの人生を支配しないようにしようとするとき、満ち満ちた平和で楽しい生活をキリストにあって送ることができます。

箴言23章7節では「彼はその欲望が示すとおりの人間だ」とあります。これはつまり心の行く所に、人は従うということを意味しているといえるでしょう。だからこそ聖書は御言葉を黙想し、私たちの心が新たになることで神の御心が何であるか知ることがわきまえることができるように訓練することを勧めているのです(ローマ12・2)。

黙想とは、聖書の御言葉を心の中で何度も何度も読み返し、その御言葉があなたの一部になるまで繰り返すことを言います。黙想によって御言葉の情報を取り込み、その情報が啓示として返ってくるようになります。あなたが何かに関して啓示を受けたなら、その啓示による真実があなたを神の御心から離していた偽りの感情から解放してくれることになります。

私自身の経験談として、大分前に私はある会議のワークショップでの講演と、その後の夕方開催される有名な講演者らと共にする会議に同席するように招待されたことがありました。本来そのワークショップで講演すべき人が突然キャンセルとなり、その役が急きょ私にまわってきました。当時私は無名でしたし、そのような場所で講演できるような存在ではないと思いましたが、その緊急性に応じて講演に同意し、神様がすべてのことを助けて下さると信頼するようにしました。

そしていざ当日の講演で話すために立ちあがったとき、これまでこのような大人数のグループの前で話をした経験が全くなかったため、私はとても緊張していました。その時私が考えていたすべてのことは、「私はただのミズーリ州フェントンから来た聖書教師にすぎない。それなのにこんなところで何をしようとしているのだろう?」ということだけでした。聴衆の前で口を開いたとき、そのような思いで頭がいっぱいになりました。しかし神様が私と共におられ、その講演で私が話すべきことを話させてくださいました。

もし私が恐怖の感情が自分を支配したままにしていれば、あの日自分が代理で講演することなど断ったに違いありません。そしてそうであったならば、私の人生における神様の召しを経験することもなく、世界中の人々とともに福音を共有し、彼らがそれぞれの人生の日々において神に信仰を置いて生活ができる手助けをすることもなく私の人生は過ぎ去っていたことでしょう。

私は多くの人々が神様から尊い賜物を頂いているにもかかわらず、その賜物を十分に使おうとしていないのではないかと疑問に思っています。多くの人々は恐怖の感情が彼らを支配したままになっており、与えられた賜物を用いることができないことでフラストレーションが生じているのではないでしょうか。

もしあなたがあなたの潜在能力を十分に発揮し、神様が創造されたあなたの在り方を表現できていないのであれば、本当の意味での幸せは経験できないでしょう。

神様の創造の目的に適った自分となるための鍵は、キリストにある自分の存在を学ぶことです。そしてキリストの中にある自分であると理解することです。つまり私たちはイエス・キリストとの関係性において新たに生まれ変わった後、聖書が私たちについて何を言わんとしているかを理解する必要があります。それは、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2・10)」と書かれてある通りです。ですから、私たちはキリスト・イエスの在り方と似たものとなるのです。彼は強く、そして私たちは彼の中にありますから、私たちも強いのです。

彼が勇敢であれば、私たちも彼にあって勇敢になります。彼が勝利者であれば、私たちも彼にあって勝利者となります。彼の中に平和と喜びがあるなら、私たちも同様に平和と喜びがあります。彼は有能であり、大胆にふるまいます。ですからキリストにあって、私たちは彼の大胆さを宣べ伝えるために必要ないかなることでもできるのです。

私たちが聖書を読み、神様が私たちについて神様の子どもたちでありキリストにある信徒として語るとき、何を語られようとしているか黙想するとき、私たちは神様が本来デザインされた私たちの姿へと変わっていくようになります。自分の感情や思いが神様の御言葉に一致していないようであれば、私の感情や考え方は間違っているのだということも聖書から学ぶことができます。

「神様の御言葉は真実である」と完全に信頼し切ることから全てが始まります。神様の御言葉はあなたに何と語っているでしょうか。神様の御言葉を読み、黙想する時間を割くとき、あなたの人生を支配するさまざまな恐怖があることを認識し、キリストにある自分を見出すことでそれらの恐怖を克服することができるようになります。そうすることで、神様の創造の目的に適った自分となるために必要ないかなることも行うことができるようになります。

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