皆さん、今からちょうど四十年前、主がホレブ山でこう言われたのを覚えていますか。『もうこれ以上、ここにいる必要はない。向きを変えて出発しなさい。エモリ人の山地、アラバ渓谷、ネゲブ、カナンとレバノンの全土、つまり地中海からユーフラテス川までの全地域を占領するのだ。わたしが与えると言うのだから、大胆に入って行きなさい。そこは、昔あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブおよびその子孫に必ず与えると約束した地だからだ。』 -申命記1章6-8節(リビング訳)
親である人たちはこの言葉に聞き覚えがあるのではないでしょうか?「あと1分!あともうちょっと!」私たちが外で遊んでいる子どもたちに声をかけるのですが、彼らはお友達たちと、まだ”もうちょっとだけ”一緒にいたいのです。少なくとも今は、遊んでいたくて、お片づけをしたり、夕食を食べたりしたくないのです。いつだって、「あともうちょっと」なのです。そして、時には、大人である私たちでさえ、大声で叫ぶ彼らのように「あともうちょっと!」と振舞ってしまいます。
自分の人生が好きじゃなかったり、自分の仕事を嫌っていたり、間違った人たちとの耐えられないような人間関係の中にいたりする、惨めな状況の人たちに今まで出会ってきました。彼らは自分が惨めであることをわかっているのですが、それについて何もしないのです。「あともうちょっと…」
あともうちょっと何なのでしょうか?あともうちょっと痛みを味わいたい?あともうちょっと落ち込みたい?あともうちょっと不幸になりたいのでしょうか?
これらの人たちは、いわゆる”荒野の考え方”を持っている人たちです。説明します。モーセはイスラエルの人々とエジプトから脱出させました。もし彼らが文句をやめて、神様に従い、神様がまず最初に言ったように前に進んでいたなら、彼らはその旅を11日間で終えていました。しかし、結果として40年もかかったのです。
なぜ最終的に彼らは動き出したのでしょうか?それはただ神様が「お前たちはこの山に長居しすぎている。」と伝えたからです。もし、神様が彼らを約束の地へと背中を押さなかったとしたら、彼らはヨルダンを渡ることを望みながら、どれくらいその場に居座っていたのだろうかと考えてしまいます。
彼らは縛られた人たちだったのです。エジプトで奇跡を目撃したのに関わらず、紅海にてエジプト軍が打ち負かされた時に神様を賛美したにも関わらず、彼らは未だに縛られたままだったのです。肉体にはもう鎖はなかったのですが、考え方は未だに鎖から解放されていなかったのです。これこそが”荒野の考え方”です。
40年間もの間、彼らは文句を言い続けたのです。水がなかったのですが、神様が彼らのために与えてくれました。彼らは食べ物について文句を言いました。マナはまあまあ良かったのですが、彼らは肉とかを食べたがりました。状況はなんであれ、彼らの考え方は囚人のままだったのです。エジプトにいた時のように、荒野でも同じ状態でした。物事がどれだけ良くなったとしても、決して満足しなかったのです。エジプトでの厳しい苦境や奴隷であった時のことを全て忘れてしまったのです。モーセのリーダーシップに満足しない時にはいつも、「あぁ、エジプトにいとけば良かったぁ。」と嘆くのです。今までがどれだけ酷い状況だったのかを忘れながら、どれだけ物事が良くなるかについてのビジョンは持っていなかったのです。新しい土地へと入っていくチャンスがあった時、彼らは恐れました。「巨人がいるんだ。」と彼らはわめきました。過去に神様の助けを目撃しましたが、現在形でそれが起きることの準備ができていませんでした。
最終的に、神様が「よし、動く時だ。」と言いました。聖書には彼らの態度については書かれていませんが、彼らの態度が変わったと信じる根拠もありません。「あともうちょっと!ここは良いところとは言えないけど、ここでの生き方はもう知っている。この場所を出ていくのは怖い。ここに慣れちゃったから。」彼らがこう喚くのを私は想像できます。
もしあなたが自分の人生を好きじゃないけれど、それを変える気がないなら、あなたにも荒野の考え方が持っているかもしれません。もしあなたの考え方がネガティブなもので溢れているなら、それらはあなたを縛りつけたままにしてしまうでしょう。
しかし!できることがあります。もう時間を無駄にする必要はありません。こう言うことができるのです。「私はもう十分、この山には居座った。悪魔の計画を打ち破って、勝利の中を生きることができる、その約束の地に入っていくわ!」
神様、私がこの荒野の考え方を捨てることができるように助けて。約束の地の考え方を持って、勝利の中を生きることができるように、イエス・キリストを通して助けて!アーメン。