…そうです。キリスト様のことを話し、その人が救われるためには、私はどんな人に対しても、対等の立場に立とうと心がけています。 -コリント人への第一の手紙9章22節(リビング訳)
ある人たちは、静かで、恥ずかしがり屋で、のんびりしています。ただ、そういう性格なだけです。私はおしゃべりな性格ですが、夫はそうではありません。どちらが間違っている、ということは一切ありません。ただ、あることが程度が過ぎるほど極端になってきて、自分たちの自由を妨げたり、誰かを傷つけてしまうようなことになってしまうと、それはもう「私はこういう人間なの。」と言うのでは済まされません。夫のデイブは、時には彼がしたいと思う以上に、私と話をする必要があります。なぜなら、私にはその話す時間が必要だからです。愛は、お互いに犠牲を払い合うことを要求します。ある時は、私がベラベラと話して話しまくりたいのですが、デイブがあまり楽しそうにしていないのに気付くと、静かになることを決断して、また違う誰かに話をしに行きます。ありのままの私たちの姿と、「私はこういう人間なの。」と言って、あまり好かれない行動の言い訳をしないことのバランスを見つけられるように私たちは神様と一緒に取り組む必要があります。私たちが自分の弱みをコントロールして、神様が私たちの強みを用いることができるように、私たちが神様にもっと似ていくことができるように、神様は私たちを変えてくれます。デイブと私は、本当に違う性格です。しかし、それでも二人はとっても仲良しです。いつもそうであったわけではありませんが、私たちはお互いのニーズを学び合いながらも、自分たちの自由は失わないように学んできました。私はデイブのニーズを満たそうとしますし、デイブも同じことをしようとしてくれます。デイブは、私があまり楽しいと思わないことが趣味ですが、私はそれでも彼が楽しいと思い、満たされて欲しいので、それをすることを励まします。デイブも私に同じように励ましてくれます。友達または、夫や妻が、お互いの関係を良くするために、あるエリアで相手に合わせることをあなたに求めているときに、「ごめんね。でも、私はこういう人間なの。」というのは馬鹿げていて、自己中心的です。自分がしたいことをする方が簡単ですし、心地が良いかもしれません。しかし、それでも、自分の個性を保ちながら、相手に合わせることはできるのです。

変わろうとしなかったり、合わせようとしなかったりすることによって、ストレスに満ちたとてもみじめな人生を生きることになります。私たちはみんな違うのです。でも、自分がしようと思えば、私たちはお互いに仲良くやっていくことができるのです。

 

神様に信頼してください。:周りにいる人たちのニーズに敏感になれるように、彼らを愛する歩みができるように、合わせるべきところは合わせられるように恵みが与えられるように、神様に助けを求めてください。神様に信頼して、私はどんな人に対しても、対等の立場に立てるように求めてください。