わたしはまた、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにはいのちも捨てます。 -ヨハネによる福音書10章11節(リビング訳)私たちが「すごい人たち」と思う聖書に出てくる男性や女性について学べば学ぶほど、彼ら全員が大きな犠牲を払っていて、神様が彼らにするように語ったことはすべて簡単なものではないとわかります。アブラハムは、自分の国も親類も、自分の家すらも離れなければいけませんでした。彼が目的地に到着するまで、神様は彼に行き先を教えてくれないまま、彼は進む必要がありました。ヨセフはある国を飢餓から救いましたが、その前は居心地の良い家から強制的に連れ出され、長年厳しい環境で生きなければいけませんでした。エステルはユダヤ人を破滅から救いましたが、彼女がそれを達成するために神様は彼女の計画を中断させました。

犠牲を払ってまで従順でいた人たちのリストはまだまだ続きます。聖書は、そのような人たちを、”この世にふさわしくない立派な人たち”と呼びます。私たちが読むこれらの人々は、他の誰かが少しでも楽になるように、自ら不自由さを選びました。イエスは、私たちがいのちを得て、それを豊かに持つためにいのちを投げ出しました。戦士たちは、市民が家で安全でいることができるようにいのちを投げ出します。父親たちは、家族が良い生活ができるように仕事に行きます。母親たちは、この世界に新しいいのちを運ぶために出産の痛みを乗り越えます。人は、たいてい誰かに何かを得させるためには、自分が痛みを通り不自由を甘んずるようです

もし、あなたが不自由や何かの最中に手を止められることを気にしないことを決断するなら、神様はあなたを使います。あなたはこの世の中で違いを生み出すことができます。しかし、もしあなたが自分の快適さにしがみついたままなら、神様はあなたを通り過ぎて、神様の思いを達成するためにきつい状況を通ることをいとわない他の誰かを使わなくてはいけません。

神様に信頼する:神様があなたに、あなたがあまりしたいと思わないことをするように求めるシチュエーションを考えてみてください。ある状況にとどまったままだったり、ある状況から出ていかなければいけないかもしれません。もしくは、あなたが仲良くできていない誰かと時間を過ごすことかもしれません…。あなたは、神様の思いを達成するために、神様から「途中で手を止められること」を喜んで信頼しますか?