犠牲を払ってまで従順でいた人たちのリストはまだまだ続きます。聖書は、そのような人たちを、”この世にふさわしくない立派な人たち”と呼びます。私たちが読むこれらの人々は、他の誰かが少しでも楽になるように、自ら不自由さを選びました。イエスは、私たちがいのちを得て、それを豊かに持つためにいのちを投げ出しました。戦士たちは、市民が家で安全でいることができるようにいのちを投げ出します。父親たちは、家族が良い生活ができるように仕事に行きます。母親たちは、この世界に新しいいのちを運ぶために出産の痛みを乗り越えます。人は、たいてい誰かに何かを得させるためには、自分が痛みを通り不自由を甘んずるようです。
もし、あなたが不自由や何かの最中に手を止められることを気にしないことを決断するなら、神様はあなたを使います。あなたはこの世の中で違いを生み出すことができます。しかし、もしあなたが自分の快適さにしがみついたままなら、神様はあなたを通り過ぎて、神様の思いを達成するためにきつい状況を通ることをいとわない他の誰かを使わなくてはいけません。
神様に信頼する:神様があなたに、あなたがあまりしたいと思わないことをするように求めるシチュエーションを考えてみてください。ある状況にとどまったままだったり、ある状況から出ていかなければいけないかもしれません。もしくは、あなたが仲良くできていない誰かと時間を過ごすことかもしれません…。あなたは、神様の思いを達成するために、神様から「途中で手を止められること」を喜んで信頼しますか?