これは日常生活でもあることです。神様が私たちに何かを語ります。もし私たちがイエスを知らない人たちにそれを説明しようとしても、伝わらないのです。例えば、宣教師としてアフリカに行った私の知り合いの夫婦です。彼らには、サポートをしてくれる教団や大きな教会の後ろ盾がありませんでした。なので、彼らは自分たちの持ち物を全て売り払いました。結婚指輪までもです。「結婚指輪まで?」無神論者の親戚が聞きました。「神様が必要を満たさないので、自分たちでしなければならないのかい?そうなのかい?」妻は微笑んで言いました。「イエスに仕えることよりも、快適さや他の人のように持ち物があることの方が重要なのかどうかを決断する必要があったのです。」夫婦は彼らが正しいことをしていると一切疑いませんでした。しかし、無神論者の親戚には全く意味不明だったのです。
多くの人にとって、神様から語られて、疑問もなしに従うことは難しいです。しかし、イエスはただそれだけをしました。十字架上だけではありません。ヨハネによる福音書4章では、イエスとサマリア人の女性の話があります。現在の読者のほとんどの人が話のイントロの部分を理解できません。4章4節の「その途中で、どうしてもサマリアを通らなければなりません。」の箇所です。イエスはエルサレムにいました。そこから北に行きガリラヤ地方に向かいたいと思っていました。サマリア人たちが住む地域はちょうどその間にありましたが、イエスはそこを突っ切って進む必要はなかったのです。ガリラヤ地方へは別のルートがあったので、サマリア人の地域を避けて行くことができました。ほとんどのユダヤ人がサマリアの地域を避けて通っていました。
なぜなら、当時、いろいろな国の人々と結婚して交わるサマリア人たちをユダヤ人は毛嫌いしていたからです。しかし、イエスはサマリアの地域を通りました。当時の人たちにとって、それはいわゆる”普通なこと”や”まともなこと”ではないのにもかかわらず。彼がそこに向かったのは、イエスからしか受け取れないメッセージを聞く必要のある女性(最終的には村人全体)がいたからです。自然に考える人たちは、つまり聖霊によって考えが変えられていない人たちは馬鹿にしてくるかもしれません。私たちがすることの意味がいつも理解されるわけではないのです。でも、私たちの行動の意味が理解される必要があるなんて誰が言ったでしょうか?自然的な、つまり世の中的な考えは霊的な物事を理解することができないというのが聖書の原則です。頻繁にあることですが、ある考えが私たちの頭に浮かびますが、「意味がわからない。」と言って押しのけてしまって、本当は神様の導きであるのに無視をしてしまっていることがあります。もちろん、突拍子もない変な考えを悪魔は私たちに持たせようとしますが、もし私たちが祈り、聖霊にオープンになるなら、私たちはすぐに違いがわかるのです。
一晩中漁をして、一匹も獲ることができなかったペテロのストーリーを考えてください。大工だったイエスが、プロの漁師であるペテロに近づいてこう言ったのです。「さあ、もっと沖へこぎ出して、網をおろしてごらんなさい。たくさん魚が取れますよ。」(ルカによる福音書5章4節 リビング訳)一晩中漁をして、一匹も獲ることができなかった、とペテロはイエスに言って聞かせました。しかし、評価できることに、うまくいかない長い長い仕事で疲れているのに、ペテロはイエスの言葉に耳を傾けました。もう一度言います。ペテロは、イエスの言葉を受け入れ、こう言いました。「だけど、まあ、せっかくそうおっしゃるんだから、もう一度やってみますがね……。」(5節)そして、ペテロはがっかりすることはありませんでした。網が破けるほどに、大量の魚が獲れたのです。
これは私たちが学ぶべき、従順さの重要な原則です。意味を考える代わりに従うのです。もしくは、私の友人の言い方を借りて言うなら、”「それでも」の法則”です。彼女が言うには、時々、神様が自分に何かするように導いていると感じますが、神様が求めるその行動の意味が分からない時があります。彼女はそのような時に、「それでも、私はするわ。」とすぐに付け加えて、導きに従うのです。
これこそ、神様が私たちに求めていることです。意味を考える代わりに従うのです。
賢くて、素晴らしい神様、私には意味がわからない物事がある時があります。でも、”それでも”私はあなたの思いの中にいたいわ。私の霊を見分ける力を成長させて、あなたに仕える機会を逃させないで。もっとあなたに信頼できるように教えて。頭で考えあぐねる代わりに、あなたにすぐに従えるように助けて。今日、私の祈りを聞いてくれてありがとう。アーメン。