なぜなら、イエス・キリストと、その十字架上の死以外は語るまい、と決心したからです。私は弱々しく、おずおずと、震えおののきながら、あなたがたのところへ行きました。また私の説教も、雄弁な説得力あることばや、人間的な知恵にはほど遠く、全く単純そのものでした。しかし、そのことばには神様の力がこもっていて、聞く人々は、それが神様からのことばだとわかったのです。 -コリント人への第一の手紙2章2-4節(リビング訳)
私はパウロのいた時期のコリントや他のギリシャの都市へ行っていたらどのような感じなのだろうと想像しようとしたことがあります。とても賢く、頭脳明晰な知識人たちに対して、語ろうとすることを想像してみてください。羊皮紙に書かれた知識をすべて学んだとしても、彼らの議論する知識を蓄えたとしても、私は彼らの反論を乗り越えられるように神様に助けを求めて祈るでしょう。私たちはパウロがしたことを知りませんが、彼の答えには仰天させられます。偉大な理論や鋭い論理で彼らに立ち向かう代わりに、パウロは全くの逆をいきました。彼はコリントに1年半の間滞在しました。そして多くの人々が彼を通してイエス・キリストを信じたのです。のちに、彼がコリント人への第一の手紙を書いた時、彼はこう言いました。「イエス・キリストと、その十字架上の死以外は語るまい、と決心したからです。」(2章2節)素晴らしいです。もし、ギリシャの知識人たちと議論する能力を持っていて、彼らの論理上の誤りを指摘することができる人がいるとしたら、間違いなくパウロがその人です。しかし、聖霊に導かれて、彼は無防備なプレゼンをすることを選んだのです。それこそ、彼を通して神様に語ってもらい、人々の心に触れることでした。

そして、今、何世紀も後になって、私はパウロのそのやり方を良く思っていて、感謝しています。しかし、いつもそう思っていたわけではありませんでした。長い間、私はすべての事において理由付けと説明を求めていました。そして、それがうまくいかないと、すごく嫌な気持ちになったのです。

私はいつも興味を持ち、いつも知りたがり、いつも答えを導きだしたいと思っていました。すると、神様は私の人生に働きかけ始めたのです。私の”答えを出したがる”衝動が、私自身を混乱させ、神様が私に持って欲しいと願っている多くのものを受け取れないようにさせていると神様は私に示しました。正しい判断力を求めているなら、肉的な理由付けはもうやめなさい、と神様は言いました。

私は中途半端が好きでなかったので、物事の一つ一つに答えを出せるともっと安心できました。すべての状況のすべての詳細を把握していたかったのです。何かが理解できない時や、答えが自分で導きだせない時は、制御不能のように思えました。それは私にとって大きな恐れでした。何かが間違っていたのです。悩んでいて、平安がなかったのです。時には、イライラして、疲れ果てていて、もう投げ出したいと思うこともありました。

私にとっては長い闘いでした。なぜなら、ついに自分自身で何かを認めることになったのです。(神様はずっとすべてを知っていましたが..)私は、理由付けをすることの中毒になっていたのです。答えを出したがる癖があるとか、そういうもの以上のことでした。まさに、強い衝動だったのです。「答えを知らなければいけない、しかも今すぐ..」神様がついにその中毒について私を納得させることができた時に、私はそれを手放すことができました。

簡単ではありませんでした。ドラッグやアルコールの中毒から抜け出す人たちのように、私にも禁断症状がありました。何かを失ったように感じ、不安を感じ、孤独に感じました。答えを出すという自分の能力にいつも私は頼っていたのです。しかし、パウロのように私も神様に頼らなければいけませんでした。

あまりに多くの人たちが、”神様だけに頼る”ことは私たちが簡単に、自然にできるものだと思っています。私には全くそうではありませんでした。しかし、神様は恵み深く、私に忍耐してくれました。神様が私に囁くように、「ジョイス、君はまだそこにたどり着いてはいないけど、それでも前に進んでいるよ。新しい生き方を学んでいるのだから、居心地が悪いのはしょうがないさ。」と言ってくれるようでした。

神様は私たちに勝利してほしいと願っています。私はそのことはずっと知っていました。今、私は以前よりも大きな勝利の中を歩んでいます。そして、私は何かをする前にすべての答えを出そうとすることはもうしていません。

天のお父さん、行動や信頼をする前にすべての答えを出さなきゃいけないと感じている私とそのような人たちにあなたが忍耐強くいてくれていることに感謝するわ。イエスの名によって、あなたが私の人生にベストのものを与えてくれることを知って、ただあなたを信頼することができるように助けて。アーメン