by ジョイス・マイヤー
こののち、神はアブラハムの信仰と従順を試しました。「アブラハム。」「はい、神様。」「あなたのひとり息子を連れてモリヤへ行きなさい。そう、愛するイサクを連れて行くのだ。そして、わたしが指定する山の上で、完全に焼き尽くすいけにえとしてイサクをささげなさい。」 -創世記22章1-2節(リビング訳)
以前に神様が私にこう語りました。「ジョイス、私を愛しているかい?もしそうなら、たとえあなたの願い通り、思い通りに私が物事を進ませなかったとしても、あなたは私を愛して、仕えてくれるかい?」当時、私は大きな大きなミニストリーを神様に求めていました。神様はこうも言いました。「ジョイス、もし私があなたにセントルイスのリバーフロントまで行って、誰にも知られることなく、一生をかけて50人にミニストリーをするよう頼んだら、あなたはそれをしてくれるかい?」私の答えはこうでした。「神様、そんなことを私にお願いしないでちょうだい!」
私たちは自分自身で壮大な計画をいつも持ちます。もし神様が小さいことを私たちにするよう求めているなら、私たちは正しく神様の声を聞けているのかどうか確信を持てません。しかし、それは私たちへの神様の思いなのです!神様が私のミニストリーについてそのような質問をしてきたとき、アブラハムが持ったに違いない感情を私も感じました。神様が彼を通して全国民の祝福とすると約束したのにも関わらず、神様はアブラハムに息子のイサクを生贄に捧げるよう言ったのです。(創世記22章を読んでください。)
私が祝福されたのと同じくらい他の大勢の人たちも神様に祝福されるようにと、神様が私に与えてくれた働きを神様自らが私にやめるように言っているかのようでした。しかし、神様は私にそのミニストリーをやめるように言っているのではありませんでした。神様はただ私にそれを祭壇のたきぎの上に置くように言ったのです。アブラハムが神様の前に、祭壇のたきぎの上にイサクを横たえたように。
私たちは何事も、たとえそれが神様のための働きであっても、神様よりも大切にしてはいけません。それが起きないように、神様は昔から、愛とコミットメントの証として、全てを祭壇のたきぎの上に置くようにと私たちを呼んでいるのです。神様への私たちの愛の証として、自分にとって一番の宝物を捧げることを求めることによって神様は私たちを試しているのです。