では、どうすればよいのでしょう。私は二通りのことをします。異言で祈り、まただれにでもわかる普通のことばでも祈るのです。異言で賛美し、また、自分にもわかるように、普通のことばでも賛美するのです。 -コリント人への第一の手紙14章15節(リビング訳)
以前に私は、”霊を手助けする考え”ということについて触れました。多くの人たちにとって、このコンセプトは理解しづらいものです。私はパウロの言いたいことがわかります。なぜなら、私自身の霊的成長において私が使うようになったものだからです。例えば、私がある朝に祈りをしていたとします。私は祈り始めましたが、祈りに何か力がないように感じました。私の霊からの助けもありませんでした。葛藤しながら、「私は神様に心を開いている。」ということを自分に思い起こさせました。私は人々の人生に変化をもたらすために用いられたいと聖霊に求めていたのです。
私は祈り続けましたが、変化はありませんでした。以前にもこういうことがあったので、特に落ち込みはしませんでした。それでも私は祈り続けて、神様に私が気にかけていること、気にかかっていることを伝え続けました。数分後、力強い何かが私を満たしました。聖霊が私に祈って欲しいと思っていたエリアに私が触れたのだと私はわかりました。私が気にかけていること以上に、神様が気にかけていることを祈ったのです。
私は自分の考えから祈ることから始めていました。私が知っていることや祈りが必要だと私が思うものについてです。私は自分の普段の言語である英語で祈っていたので、自分が何を祈っているのかはわかっていました。しかし、聖霊のとても大きな力が来た時、何も考えずに、私は祈りの言語で祈り始めていました。つまり、異言と言われるもので祈っていたのです。パウロはこの分野においても私たちの模範であり、教師であります。彼は、聖霊で祈る方法も、理解で祈る方法もどちらもわかっていました。確かにすべての人が理解できるものではないかもしれません。というより、最初はみんなが混乱してしまうものです。しかし、まだあなたが経験したことがないという理由で、ただ理解できないという理由で、あなたが使うことができる神様の贈り物を拒絶しないでください。
神様にオープンになってください。異言で祈ることについて神様が教えてくれるよう求めてみてください。