では、どうすればよいのでしょう。私は二通りのことをします。異言で祈り、まただれにでもわかる普通のことばでも祈るのです。異言で賛美し、また、自分にもわかるように、普通のことばでも賛美するのです。-コリント人への第一の手紙14章15節(リビング訳)
このように考えてみてください。神様は私たちに祈るように呼んでいます。それは私たちの喜びであり、責任です。時々、私たちは神様に祈りますが、なんて言えば良いか分からない時があります。祈るのですが、言葉では不十分に感じるのです。あたかも、私たちの抱える重荷には言葉を超越した深さがあるかのようです。私たちの内側にとても力強い何かが起きていて、もはや圧倒されているのですが、それを説明するような言葉が出てこないのです。私の場合、英語を使うのがとても意味がなく感じてしまいます。たとえ、私たちの考えや理解から言葉を出したとしても、ブレイクスルーがないように思えたり、勝利を得たように感じることがないのです。そこで、私はこう呼んでいるのですが、”祈りの解放”の登場です。自分が理解できない言語を語るのです。私の、人間としての考えの理解を超えた言葉ですが、私の霊はその”言葉”を理解しています。つまり、私の祈りが正しいものであり、祈りとして聞かれているということを理解しています。
この体験についての一番良い聖書箇所は使徒行伝2章でしょう。そこでは、ペンテコステについて語られています。世界中からユダヤ人たちがエルサレムの町に来ていた時、弟子たちは部屋で祈っていました。部屋にいた120人は、聖霊に満たされて、彼らの話す言語とは違う言語を急に話し出しました。しかし、訪問していた人々はそれを聞いて、「この大音量に、人々は、いったい何事かと駆けつけましたが、弟子たちの話していることばを聞いて、すっかり面食らってしまいました。紛れもなく自分たちの国のことばだったからです。」(使徒行伝2章6節リビング訳)使徒パウロは、異言で話せることを神様に感謝していました。また彼は、誰も異言で話すことを禁じられるべきではないと言いました。異言で話すことについて教会でも多くの議論や対立が起こりました。しかし私はあなたを励ましたいです。聖書を読んでみて、聖書には異言についてなんて書いてあるかを見てみてください。聖霊から来る、価値のある貴重な賜物の一つに対して心を閉じないでください。勝利の人生を生きることを助けてくれる、超自然的なサポートは私たちみんなが必要としているものです。ある人たちは、異言で話す賜物は初期教会の時代以降は無くなってしまったという人々がいます。しかし、今日世界中に何百万人もの人たちが異言で祈っているのです。異言で話す人が異言で話さない人より、優れているわけではないですし、より霊的であるわけでもありません。しかし、今一度励ましたいです。このエリアについて神様を求めてみてください。あなたの祈りが可能な限り最大限の力を働けるようになるのです。私たちが聖霊によって祈るとき、私たちの考えと霊は一緒に働きます。私たちの考えが霊に従うのです。そして、私たちは神様が願う完璧な祈りを祈っているのです。聖霊様、あなたが私に使用可能にしてくれた超自然的な賜物を求めるわ。勝利の人生を生きるために必要な助けを全て私は受け取りたい。聖霊によって導かれる力強い祈りを私は祈りたい。私が自分の言葉で祈る祈りをもちろんあなたは聞いてくれているのを知っているわ。でも、あなたに私が言葉にできない内側の秘密や未知のことについて話すことができるように与えてくれた異言の賜物にオープンになるわ。あなたを信頼します。イエス、私を正しい方向に導いて。アーメン。