続いて主の声がしました。「だれをわたしの民への使いとしよう。だれが行ってくれるだろうか。」「主よ、私が行きます。私を使いに出してください。」 -イザヤ書6章8節(リビング訳)
自分を捧げる祈りでは、私たちは人生と自分そのものを神様に捧げます。神様に用いてもらうためには、私たちは神様に自分を捧げなければいけないのです。私たちが本当に神様に自分を捧げる時、私たちは自分の人生を自分で一生懸命動かそうとする重荷を下ろすことになります。私は神様を自分に従わせようと苦労するより、むしろ喜んで神様に従いたいです。神様は行き先を知っています。私にわかっていることは、神様に導いてもらうなら、私は安心して目的地に到着できるということです。私は定期的に祈りを通して、神様に自分を捧げています。私はこう言います。「神様は、私はここにいるわ。私はあなたのもの。あなたが喜ぶように私を使って。」そして時にはこう付け加えます。「神様、あなたが選ぶものを私は好きだわ。でも、もし好きになれないものでも、私のではなくあなたのしたいことが実現しますように。」

神様に自分を捧げること、つまり献身というのは、私たちが自分らしくいる上でとても重要になります。私たちはそもそも自分では自分がどういう存在なのか知りません。まして、それがなんであろうと、どのようにそうなれるのかなんて知ることはありません。しかし、私たちが定期的に神様に自分を捧げ続けると、神様は私たちの内側でなされるべきことをしてくれて、私たちを通して神様がしたいと願っている働きをすることができるのです。

神様、今日私の体も、心も、魂も、喜んであなたに捧げるわ。私の人生を手にして、それを形作って、あなたの栄光のために使って。アーメン。