なぜ、ちっぽけで取るに足りない人間を、神様が相手にし、目をかけてくださるのか、わからなくなります。ところが神様は、御使いにほんのすこし及ばないだけのものとして人間を造り、栄光と誉れの冠をお与えになりました。 -詩篇8章4-5節(リビング訳)
高慢は、ぞっとするような罪です。聖書は、自分を必要以上に高く評価しないようにと私たちに教えています。(ローマ人への手紙12章3節を読んでください。)というのは、自分について悪く言ったりとか、自分自身を蔑むということではありません。どういう意味かというと、私たちは他の人よりも優れているわけではないということと、神様が私たちにさせてくれていることはなんであれ、神様からの贈り物であることを思い出すことです。自分の瞳の色や髪の色同様、特別な能力ももはや自分の力で得たとは言えないのです。パウロはコリントの人々に、自分の持っている物で神様から来ていないものがあるかどうか聞きました。(コリント人への手紙4章7節を読んでください。)私たちが必要以上に自分を評価しないように忠告されている時、それは、このことを意味しています。私たちはイエスから離れているならば、ちっぽけな存在であるということ、イエスがいなければ私たちは何もできないということを思い出すということです。私たちの価値は、イエスの中に見出されます。イエスのおかげで、私たちは自分のことを祝うことができます。言うならば、イエスの中で自分が誰なのかを祝うとき、私たちはイエスを祝って称えているのです。私たちはこのことを必要以上に難しくしてしまいます。でも実はシンプルなのです。私たちはイエスの中で何でもできる存在であって、自分自身の中ではちっぽけな存在なのですこう言いたいです。「私は何でもできる存在であって、同時にちっぽけな存在!」神様が私たちの中でしてくれる素晴らしいことによって、私たちは祝います。自分自身の中で持っている価値によって祝うのではないのです。私たちがするすべての良いことで神様に栄光を返し続けるなら、私たちは安全で正しい道を歩んでいます。なぜだか、宗教は人々にこう教えてきました。”神様のようになりたければ、律法を持つべきであると、つまり自分について悪い考えを持つべきである”と。このような考え方が神様の計画に大きなダメージを与えてきてしまったと私は信じています。私たちが、自分が神様よりも低い存在であること、そして神様はいつでも私たちのリーダーであることを知っている間は、私たちは安全です。

神様に信頼しましょう。:日々、声に出して言いましょう。「私はイエスがいなければちっぽけな存在。でも、イエスの中で、イエスを通して、私には大きな価値があって、私は偉大なことができる。」