スミス・ウィグルワースは偉大な説教者でした。しかし、彼は説教者になる前は、
配管工をしていました。クリスチャンでもなければ、優しい人でもありませんでした。幸運なことに、彼には神様を信じる妻がいました。彼は、妻に教会に行って欲しくないと思っていましたが、彼女は教会に行き続けました。彼女が教会に行くと、彼は家に鍵をして彼女を締め出しました。彼女が帰ってくると、鍵が閉まっているので、玄関口で寝なければいけませんでした。朝になって彼が家の鍵を開けると、彼の妻は家に入ってきて、「おはよう、スミス!」と元気よく言い、彼に朝食を作ってあげました。彼女は彼にとって、神様を示す模範でした。彼女は彼のために祈り、彼の失礼な振る舞いにもかかわらず彼に良くしてあげるという恵みを神様は彼女に与えていました。彼女が彼に本当に良くし続けるので、最終的に彼もイエスと出会い、大きく大きく変わりました。結果として、彼は世界でもっとも偉大な説教者の一人になりました。 これが祈りの力です。祈りとは何なのか?

祈りとは、シンプルに、神様との会話です。祈りとは、自分のニーズ、または誰かのニーズが満たされるように神様に願い求めることです。祈りとは、神様を賛美して、神様への感謝を示すものです。祈りとは、物事を神様に委ね、神様に明け渡すことです。全てのことについて、なんのことでも、私たちは神様に祈る必要があります。

ある人たちは、祈りが本当はどれだけ力強いかを理解していないので、あまり祈ることがないです。真実は、祈りはクリスチャンとして私たちが持てる最大の特権の一つなのです。

「私たちが祈る時、私たちは自分たちの問題や状況に神様が働くことができるように、神様のためにドアを開くことになります。」

私たちが祈る時、私たちは自分たちの問題や状況に神様が働くことができるように、神様のためにドアを開くことになります。祈りは、私たちを神様のパートナーとさせます。私たちは誰かを本当には変えることはできないけれど、誰かに神様を愛させることはできないけれど、神様は彼らの心に手を差し伸ばして、触れることができるのです。

また、私は祈りは思うよりも簡単であるとも信じます。しかも、呼吸のように、何回祈ったかも数えられないくらいライフスタイルの一部になることもできるのです。

何が祈りを力強くしますか?

ヤコブの手紙5章16節で聖書はこう教えています。「ですから、互いに罪を告白し、祈り合いなさい。正しい人の熱心な祈りには、大きな力があり、驚くほどの効果があります。」祈りは情熱的です。それは、嘘偽りのない心で、あなたの心を全て注ぐのです。

祈りは、別に言葉上手でも、長くなくてもいいのです。膝をついたり、大きな声だったり、両手を組んだり、頭を下げたりした方が良い祈りであるということでもありません。謙遜な姿勢は素晴らしいです。しかし、自分の姿勢やポーズ、祈りの長さが効果的であるわけではないのです。

できる限り少ない言葉で、私が求めているものや必要としているものを祈り求めるように神様に語られたことを覚えています。最初は難しかったです。例えば、私たちが間違えたことをしてしまった時、ただこう言うのは難しいです。「神様、間違えちゃったわ。この間違いを認めるわ。私を赦して。ありがとう、神様。アーメン。」

そのかわりに、こう言うのは思い当たる節があるかもしれません。「あぁ、神様!あなたに赦してもらう必要があるわ、私を赦して…お願い、神様、私を赦して。あぁ、神様、私を赦してください!お願いします..神様..もうしないと約束するわ。」

ヘブル人への手紙11章6節では、神様を喜ばせるのは信仰であると書いています。もし、私たちが神様の存在を信じ、彼を探し求めるなら、神様は私たちに報酬を与えてくれます。私たちは、神様に助けてもらうように嘆願したり、懇願する必要はないのです。神様は、良い神様です。あなたを愛していて、あなたにとってのベストを与えたいと願っている神様です。

神様と時間を過ごしてください。素直に、嘘偽りなく、神様と話をしてください。神様に心配事を投げてください。そして、神様が何をどうしてくれるのかを知って、神様の導きに従っていってください。